8.幼少期の理想の年収は? メモ魔
先に述べておくと、この抽象化の作業ではこの問いに対して単なる答え以上に、思いがけない気づきをも与えてくれるところがあるから面白い。
生活にいくらかかかるのか
分からなかったから、判断できない
だから、いくら欲しいという欲求もなかった
具体
- 幼少期にとっての1000円は大金
- お年玉だって500円程の金額
- 1万円がどんな価値があるのかも、わからない
- 貯金が好き
この頃にお金に悩む経験があるかないか。これで将来的な欲望や欲求にお金が関わってくるかどうかかが決まる部分もあるだろう。
そういう意味を含めると、お金に困るという生活ではなかった。(両親に感謝)
だから、そこまでお金に対してもっと稼いでやるという強い思いは、湧いてこない。だから人生の軸に単に「お金を稼ぐこと」「お金以外を全て犠牲にすること」がないのは確か。
また、消費欲求もあまりなかったのか、お年玉は全額貯金してた(使った先が、浪人するための入学金とかだったかな笑)
好奇心がないというよりも、お金を使ってまでしたいことがゲーム以外なかったかな。まあ、幼少期は外でみんなで遊ぶのが1番だったからなあ。
モノに困らなかったのは、戦争経験者である祖父母のおかげかもしれない。とにかく飯もモノも与えてくる。必要以上に与えられると、モノに対する執着がなくなると思う。
抽象
- 中途半端に満たされると、欲求が湧かない
- 目に見える形で積み上がっていく、溜まっていくのは快感につながる
- モノの量により行動が異なる。
まあ、あの状況を中途半端というのは良心が少し痛むが、貧しくもなく、かといって裕福でもないのは中途半端であろう。
自分が望んだり、欲しいという欲や意思とは無関係に親や祖父母が良かれと思って与える行為自体は決して悪いものではないが、良いかどうかは判断が難しいと思う。
つまり、
心から湧き出る何かはモノを通じて受け取るのではなく、行動や体験として感じることから現れる
のかもしれない。ただ単にモノを与えられて満たされる事よりは、モノがないくても、体験としてある方が自分の人生にはよいのかもしれない。
もちろん、モノによって変わることもあるが。
単にモノを与えてるという行為は互いに消費にあたり、簡単に満たしてくれるが、それ以上ではない。
また、
惜しみなくモノを与えられているという行為は一見すると良い行為なのかもしれないが、モノよりも体験を与えた方が価値がある。
転用
- なにかを送る時、与える時、単なるモノではなくなにか体験と結びつけられないか、または体験を与えられないかと考えて、それを実行する。
モノを送るにしても、どういう体験をしてもらうために送るかを一考してみる。そうすると、相手の心を動かせるかもしれない。
心を動かす
つまり感動、納得、背景、思い、価値、わくわく、喜び、を体験させる。
その視点というか、これもまた自分の軸なのかもしれない。
一緒に体験し、心を動かす
なるほど、
3月の新しい体験を探して自分の心をまずは動かしていこう。